ケープ植民地の最前線、現在の南アフリカ共和国東部のダーバン周辺を国土としていたズールー王国では、1816年にシャカ王が即位する。シャカは王となる以前から国土を拡張する計画を持ち、独身の青年からなる軍隊を組織した。最初の標的となったのはケープ植民地ではなく、ズールー王国の西や北に隣接する他のアフリカ人である。1820年から1830年にかけてズールー戦争が拡大し、現在の南アフリカ共和国に居住していたツワナ人のほぼすべてがボツワナ及び隣接地域に逃れることとなった。ツワナ人はこの時期をディファカネ(受難)と呼んでいる。
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リビングストンとの接触
ボツワナを訪れた最初の宣教師はプロテスタント系のロンドン伝道協会に属していたロバート・モフェット、1820年のことである。しかしツワナ人への布教は失敗に終わった。ヨーロッパ人はイスラム以外のアフリカ人は抽象的な思考をもたず、キリスト教の福音をすぐさま受け入れると考えていた。しかしツワナ人においては、生命力概念を中核とした人間(ムンツー)中心のバンツー哲学に通暁しており、生活習慣、文化と密接な関係をもっており、これを退けることは難しかった。20世紀末の現在においても統計上は国民の60%がキリスト教徒となってはいるが、定期的に教会に顔を出すものは20%以下であり、どのような宗教的な助言を受け入れるかという視点から見ると、大部分が伝統的宗教に属する。
宣教師、探検家のデイヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)モフェットの後を継いだのは義理の息子であるデイヴィッド・リヴィングストンであった。リヴィングストンは他の探検家、宣教者とは異なり、少なくとも表面的にはアフリカ人と対等に付き合った。1857年に出版されたリヴィングストンの「南アフリカにおける布教のための旅と探索」によると、1852年にベチュアナ人(ツワナ人)が領域防衛、奴隷狩り阻止のため、指導者セチュレの元にボーア人との最初の戦闘を起こし、ボーア人を撃退した。ボーア人はリヴィングストンがツワナ人を煽動したと疑っており、彼の資産を奪い、書物を盗み出したともある。
リヴィングストンはツワナ人と良好な関係にあり、直接的な報復を受けなかったのはツワナ人による庇護のためだと考えていた。これと前後して、8部族の1つクウェナの首長シケレ1世はリヴィングストンから洗礼を受けキリスト教徒となった。シケレ1世は宗教心からというより、イギリス人を頼り、なんとかボーア人と対抗することを考えていた。
グレートトレック
リヴィングストンの逸話に描かれているボーア人はケープ植民地内で農耕に従事していた姿とは大きく異なる。このような変化は奴隷に関するイギリスの対応が変化したことに遠因がある。1828年にはケープ植民地における非白人の強制労働が禁止された。農作業の労働力として黒人奴隷を使役していたボーア人は打撃を受ける。1834年にはイギリス帝国内部に限定されてはいたが、奴隷制度自体が廃止されてしまう。イギリスの対応は1807年の奴隷貿易廃止から一貫しており、もはや覆すことは難しかった。
ボーア人を怒らせた2つ目の政策はケープ植民地における土地の私有化である。従来のボーア人農業は植民地当局から借り受けた農地を過剰な農業、放牧によって短期間に農業が維持できなくなるまで使いつぶし、次の農地を借りて移動するというものであった。土地の私有化が進むとこのような短期間に利益のあがる「農法」は維持できない。
ボーア人はもはやイギリス統治下のケープ植民地では生活ができないと考え、1835年、突如大集団を形成し、移動を始める。彼らの心の支えはオランダ改革派教会であった。自分たちを神に選ばれた選民であると信じ、蒙昧無知、劣悪なアフリカ人を征服することが疑いなく正しいと思い込んでいた。彼らが移動した先の土地は自動的に神に与えられた土地となった。彼らの土地に住むアフリカ人は、ボーア人が慈悲で居住を許しているのであり、その代わり、必要に応じて労働力(強制労働)を提供しなければならないという論理を貫いた。ツワナ人をはじめとする現地住民はほとんどの場合、財産を捨てて逃げるか、火器で武装した農民に従わざるを得なかった。 現地の諸民族はシャカ王の攻撃からまだ5年しか経過しておらず、統制が取れていないため、集団で対抗することもできなかった。
このころには一部のボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになっていた。これまで障壁となっていたドラケンスバーグ山脈を越え、ボツワナに隣接するトランスヴァール地方に移住していく。アフリカーナーは4年を要したこの移動のことをグレートトレックと呼んでいた。移動手段は牛車であり、数百家族に及ぶ行列を形成した。シャカ王は既に没していたが、ズールー人の攻撃をはねのけた移動は犠牲も大きかった。
1850年のアフリカ大陸の地図 中央部は以前空白のまま残っているアフリカーナーはズールー族を駆逐し移動を停止、1839年にナタール共和国を建設する。 しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立、イギリスも両国を承認した。アフリカーナーとイギリス人の間で鉱山の領有権の争いが起きると、ツワナ人に対する攻撃は止み、1850年から1860年にかけてボツワナにも平和が訪れた。1869年のスエズ運河開通を受け、ケープ植民地の位置付けも変化していく。交易の中継点から鉱業の中心地となっていった。
ツワナ人は一時の平和を信じていなかった。いずれアフリカーナーによる攻撃が再開することを予期し、定住地域を調整しつつ、ヨーロッパ人からライフル銃を購入し武装した。
ドイツの影響
ツワナ人の予想通り、1870年を過ぎると、アフリカーナーの膨張が再開した。トランスヴァール地方のみならず、北西のリンポポ川を越えてさらに北方の領有権を主張し始めたからだ。ボツワナの主要な耕地と人口密集地帯はリンポポ川の北岸に広がっていたため、ツワナ人は窮地に立たされた。高原を形成していたトランスヴァールとそこから緩やかに下っていく平原(ボツワナ)は一体であり、侵入を防ぐ天然の防壁は存在しない。このため、当時の最大部族であったングワト族の首長カーマ3世はイギリスに保護を求めた。しかし、砂漠とステップ地帯だけが広がるボツワナを守る利点がイギリスには存在しなかったため、保護は得られなかった。
ナミビアの位置 東へ細長く延びているのはカプリーヴィ回廊
ナミブ砂漠の砂丘 350mという高さは世界でも最も高い。平原が広がるボツワナのカラハリ砂漠とは対照的な眺めである。ちょうどよいタイミングで状況を救ったのがドイツの動きである。1871年のプロイセンによるドイツ帝国成立を受け、後発ながらアフリカの植民地化を開始したドイツは、南部アフリカに取り残されていた現在のナミビアに目を付けた。ナミビアは南極環流から北上するベンゲラ海流の影響を強く受け、沿岸にはナミブ砂漠が広がり、不毛の土地と考えられていた。唯一、中央部沿岸の良港ウォルビズベイが1878年にイギリスのケープ植民地の飛び地として成立していた。1883年、ドイツの貿易商アドルフ・リューデリッツは地元の首長と交渉し、ウォルビズベイを除くすべての沿岸の権利を獲得した。イギリスはドイツと交渉に入ったが、ボーア人とドイツ人が連合することだけは避けたかった。イギリスとしては重要な南アフリカを守る必要があるため、ナミビアでは譲歩することとなり、海岸線から東経20度に至る広大な土地をドイツの植民地として認めざるを得なくなった。これが、ドイツ領南西アフリカの成立である。21世紀に至る現在でもボツワナとナミビアの国境のうち約1/2は東経20度線そのものである。1884年にアフリカ大陸東岸のタンガニーカに権利を得たドイツは両植民地の接続をもくろむ。1890年には東岸に流れ下るザンベジ川へのナミビアからの回廊をイギリスとの交渉で取得している。結局、長さ440km、幅30kmのカプリーヴィ回廊が当時のそして現代のボツワナの北限となった。
ドイツの影響は東側と北側からだけではなかった。1887年、ボーア人のトランスヴァールとポルトガル領東アフリカ、現在のモザンビークを結ぶ鉄道計画が興る。モザンビークのデラゴア湾の名前を取り、デラゴア鉄道と呼ばれた。このとき建設資金を提供しようとしたのがドイツである。鉄道が完成すれば、ボーア人はケープタウン港を経由しなくても鉱物資源を輸出できる。ドイツとしてはイギリス勢力をアフリカ南端に抑えこみ、自らのタンガニーカ植民地とナミビアを鉄道で結ぶことができる。ドイツは海軍を動員し、イギリスを牽制した。
ボーア戦争
ボーア人とイギリス人の関係は良好とは言えず、特にボーア人の国家で鉱物資源が発見されると、イギリスの侵略を招いた。これがボーア戦争である。第一次ボーア戦争(1880年 - 1881年)ではボーア人がイギリス軍を打ち破り、トランスヴァール共和国の独立を守った。1867年にオレンジ自由国でダイヤモンドが1886年にトランスヴァールで金が発見されると、投資も集まり、安定した植民地を形成した。しかし、第二次ボーア戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)ではイギリス軍のなりふり構わぬ殲滅作成を受け、ボーア人は強制収容所に押し込められてしまう。イギリスの行為は世界的な非難を浴びたが、ボーア人国家の独立が回復されることはなかった。